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思い出

俳句フォトエッセイ

母の日のフレンチトースト母の味

ぼくは猛烈に好き嫌いの激しい子供だった。野菜はほぼ食べないし、卵は黄身だけ。お肉の脂身も残した。当時はまだ安かった鰻でさえ、皮の部分は取ってもらった。そんな様子だったから、学校の給食は当然大の苦手。ところが担任の先生が厳しく、給食を残すことを許さない。掃除が始まり、休み時間が始まっても、教室の角で一人残され、涙を流しながら給食と格闘した。ところが、そのぼくが教師になった。クラス会に行くと、「おい、小山!給食はどうしているんだ」と必ずからかわれた。今も好き嫌いはなおらないが、何とか生きている。母は料理は得意ではなかったらしい。

俳句フォトエッセイ

銭湯に浸り極楽石蕗の花

大田区の某小学校で一年生の俳句の授業をした。その帰り道、ふと近くに銭湯がある事を思い出した。マンションの一階にある銭湯で、草津湯という。銭湯というと、お城のような門構えで高い煙突があるイメージがあるが、最近は煙突がない銭湯も多い。燃料が重油から都市ガスに換わったからだろう。それにしても気持ちがいい。湯船にしっかりと浸かると体の芯からほぐされる。つい、この前までは、スーパー銭湯にハマっていたが、普通の銭湯でも十分である。この草津湯もジェット風呂や電気風呂、サウナも備えている。ぼくは少し低温の鉱泉掛け流しに入った。大量のお湯をジャバジャバと惜しげもなく使い、取っ替え引っ替え、いろんな湯に入る。

俳句フォトエッセイ

おじちやんの形見纏ひぬ弥生かな

3月11日。東日本大震災から14年である。あの日、あの時、僕は江東区役所の6階にいた。書類ケースから書類が飛び出し、天井から吊ってあった看板が落ちてきた。帰宅すると、食器棚が1メートル程動いており、中の食器は半分程割れていた。妻は「一人でいるのは怖い」と隣の家に身を寄せていた。今日一日中、テレビは震災の話を流していた。3月11日は、ぼくにとってもう一つ重要な意味がある日だ。山崎剛太郎さんの命日だからだ。剛太郎さんは、フランス映画の字幕翻訳のレジェンドである。剛太郎さんは父・小山正孝の親友だった。府立四中以来の仲だ。「山崎剛太郎『薔薇物語』刊行に寄せて」という正孝の文章に次のくだりがある。

俳句フォトエッセイ

四月馬鹿此奴一つがあれば良し

一ヶ月前倒しの「四月馬鹿」である。「四月馬鹿」は「万愚説」とも言う。春の季語である。ぼくの持っているスマートフォンは最新鋭のiPhone16Proだ。ケースは新進気鋭のイラストレーター佐山愛の手による。ちょっとした自慢だ。このiPhoneは写真の人物を消す事もできる。フェイク画像すら簡単にできてしまいそうだ。おそらく50年前の世界最高級のコンピュータの機能を遥かに上回るだろう。電話だけでなく、財布にもなるし、地図にもなる。辞書も入っている。ビデオを見たり、音楽を聴いたりもできる。何でもござれだ。この俳句フォトもiPhone一つで作成している。パソコンもタブレットも要らない。

俳句フォトエッセイ

青年の四人揃ひて時おぼろ

この四人は、高校時代の友人だ。この三十年くらい、毎年一回は会う。かつては上野だったが、今は銀座だ。左から二人目のMが絵を描いている。毎年この時期に銀座四丁目そばの大黒屋でデサント展というグループ展があり、そこで落ち合うのだ。S区で退職した美術の先生達の展覧会だが最高齢の方は九十近い。作品は実に伸び伸びしており、感激した。例年は駅チカの「ライオン」が会場になるのだが、今年は近くのビルの上の静かな蕎麦屋だった。「卒業してから六十年だなあ」律儀で、いい加減な後の三人をまとめてくれているSが言う。いつもは高校時代の思い出話となるのだが、今日は違った。「お墓、どうするんだ?」

俳句フォトエッセイ

春めくや並びて鱈子スパゲッティ

トラットリアレモンは、お茶の水のレモン画翠の経営するイタリアンレストランである。レモン画翠は大正時代から続く由緒ある店だ。トラットリア「レモン」は鱈子スパゲッティがメニューの中心で、それに苺ジュースがつく。人気で昼になると行列ができる。店内も実にお洒落。ぼくがここに来るのは、ほぼ、三ヶ月に一度、三楽病院の定期検診の血液検査の後である。この時だけは塩辛い鱈子スパゲッティを楽しみ、甘い苺ジュースを心置きなく飲む。しかし、それも今日で終わりだ。三楽病院から撤退して地元の病院に移ることにしたからだ。その経緯は前に書いたのでここでは省く。三楽病院は元々は教職員の病院だった。

俳句フォトエッセイ

招かれてファミリーになるお餅つき

年の終わりに素晴らしい一日のプレゼントをいただいた。餅つきに招待されたのだ。昨年の夏、LINEで偶然にKさんと繋がった。十年ぶりといってよい。Kさんご夫妻には大学時代「マーくん」と呼ばれ、とても可愛がってもらった。家にもよくお邪魔してごちそうになった。大学を卒業し、就職してからは交流は跡絶えていたご主人とは職種が違ったし、Kさんは東京の教員になっていたが中学籍だったので会うことはなかった。Kさんが管理職になった頃、何回か会って教えを乞うたことはある。そのKさんが退職まで数年を残して突然校長職を辞した。ご主人が重い病を患っていたことは後で知った。半年後、ご主人は亡くなった。