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雨を呼ぶ秋夕焼の赤き雲

小山正見

夕焼けの色が毎日異なることに気がついたのは、俳句を始めてからだった。
都会にも花がたくさん咲き、自然に満ちていることも、俳句にたしなむようになって初めて意識した。
それまでも、ぼくはちゃんと生きてきたと思うが、いつ桜が咲き、いつ散ったかも意識をしない生活をしていた。ある意味「模範的なモーレツ人間」だった。「24時間戦えますか」のコピーを何の違和感も無く受け入れていた。生きるとはそういうことだと思っていた。
近代以降の社会は「目標」社会である。目的を持ち計画を立て実践する。学校では嫌というほど、この考え方が叩き込まれる。教育目標に始まり、学年目標、週目標、果ては給食にまで目標がある。目標、目標、目標なのだ。
こうした社会では「ボーと生きている人間」はなかなか評価されない。
しかし、それで良いのかと思う。
現代社会においては、目標持たないと上手に世の中を渡れないことは確かだ。
しかし、目標を持つということは、目標以外のものに目を瞑るということをも意味する。
この顕著な弊害は次の二つだと思う。
一つは目標を見失った時、精神に多大な打撃を受けるということだ。最近の精神疾患の急増は目標型社会の当然の結果だと思う。
もう一つは新しいことを発見できなくすることだ。目標は自分の既知を組み合わせて立てる。未知のことは目標の要素になるはずもない。
人間の目は見たいものしか見えない。
目標を一旦横に置いて、「ボー」としているからこそ、未知のものが目に入るのだ。
ぼくは、俳句に出会って少しは「ボー」とする時間を、「ボー」とする生き方を手に入れることができた。
その結果、自然が少しは見えるようになってきた。ぼくの人生にとっての幸せである。
さて、問題は夕焼けである。
一年中夕焼けはあるが、俳句では夏の季語になっている。夏が一番美しく見えることが理由らしい。
夕焼けが赤くなるのは、光の性質によるものだが、低い雲に当たるとどす黒い赤や紫に近い色になる。これは天気が変わる前兆でもある。
この雲の色は何となく怪しい。