【初心者歓迎】俳句フォトの会 会員申込はこちら

身に入(し)むや七十年の歯の記憶

小山正見

写真のケースの中には、抜いたばかりの歯が入っている。歯そのものの写真にしようと思つたが、あまりに汚すぎるのでやめにした。
何となく歯がグラグラして少し痛みもある。やむを得ず歯医者に行くことに決めた。しかし、どの歯医者に行くか。元住吉には、歯医者が多い。ブレーメン通りだけで20軒の歯医者がある。迷っても仕方ないので、我が家から一番近い歯医者に行くことに決めた。妻が以前お世話になった歯医者さんだ。その時の印象が悪くなかったからもある。
すぐレントゲンを撮られた。
医者が言う。
「乳歯ですね。これは抜くしかありませんね。」
びっくりだ。まさか、今まで乳歯が残っていたとは‼️
この前歯医者に行ったのは、20年以上前である。まだ墨田区の業平橋に住んでいた頃だ。
「痛くない治療」という謳い文句に惹かれて行った。謳い文句通り丁寧で親切な治療をしてくれたが、奇妙な歯医者だった。
診察台の目の前に「治療は愛から」という手書きの紙が貼ってあった。どこかの「新興宗教」のようでおかしかった。待合室のワゴンでは靴下が売られていた。壁には「抽選で台湾旅行が当たります」とあった。
その歯医者で治療した歯は10年くらい経った時、「ご利益」がなくなり外れてしまった。歯に穴ボコがあいた。
「どうしよう、どうしよう」
歯医者には行きたくない。痛みがなかったのでそのままにしておいたら、そのうち慣れてしまった。
子供の頃のぼくは結構頻繁に歯医者に通った。歯が悪かったのではなく、「良すぎた」のだ。乳歯が頑丈過ぎて永久歯が出てくるのを邪魔していた。何本も歯を抜かれた。
歯医者ほど、嫌なところはない。
そして、残った乳歯の最後の一本がこの歯だったのだ。
先生は、実に丁寧だった。緊張しているぼくに話しかけ、緊張を解こうとしていることがよくわかる。麻酔が大丈夫か心配し、少しずつ作業を続ける。ゆっくり時間をかけ、痛みを全く感じないうちに抜歯は終わった。
抜いた歯をしげしげと眺めた。黒ずんで汚れに塗れた歯。ぼろぼろになるまでぼくの食生活を支えてくれたと思うと愛おしい。
これから相当の期間、ぼくは歯医者に通うことになるだろう。カウンセラーのように気遣いを見せてくれるこの先生なら、通い続けられそうな気がしてきた。