俳句フォトエッセイ2026.06.04「汚い」をほじくり回し麦の秋小山正見この本の著者は、金田一秀穂である。ご存知のように秀穂は、金田一京助、金田一春彦と三代続く言語学者の三代目に当たる。ぼくは、秀穂と一度だけ顔を合わせたことがある。おーいお茶新俳句大賞の表彰式・祝賀会の席上であった。祖父の金田一京助のアカデミズムと比べると、秀穂の言説はずい分カジュアルであるが、興味深い視点を与えてくれる。この本は、「汚い」日本語講座と題される新潮新書の一冊。発行は、2008年だ。本棚から取り出し、ページを繰ってみる。「汚い」とは何か?を彼は研究室の学生と一緒に探求していく。最初は「汚い」には順序があることを取り上げている。人間の体から排出されるものはだいたい汚い。しかし、目糞と鼻くそと唾と爪の垢、糞とおしっこ、ふけ、汗、どれが一番汚いかを議論している。どうでもいいことだが、何とも面白い。排泄物でなくても汚いものはある。ばい菌とか、ゴミ、腐ったものも汚い。では、汚い字とか、汚い言葉はどうかと議論は発展していく。さらに進むと、「汚い」と「小汚い」では、どちらの方が汚いかなどが俎上に上げられる。「こんな風に物事を考えていくのか」興味が湧いた。眠気がすっかり覚めて、更に読み進めた。すると本に線が引いてあることに気がついた。ぼく自身が引いた線だ。するとぼくは、以前にこの本を読んでいたということになる。しかし、少しも覚えがない。きっと途中で読むのを止めたのだろう。そう思って、読み進める。人類は、生き延びるために感染病を防ぐ仕組みを必要としたのではないか。それが「汚い」を忌避する習慣なのではないかと人類の進化にまで話は及ぶ。実に壮大だと感心していたら、ここにも自分の手で線が何重にも引かれていた。読んだことをすっかり忘れているのだ。これは、記憶をすっかり忘れたことを嘆くべきなのか、同じ本を何度も新鮮な気持ちで読めたという幸せを喜ぶべきなのか。
この本の著者は、金田一秀穂である。ご存知のように秀穂は、金田一京助、金田一春彦と三代続く言語学者の三代目に当たる。ぼくは、秀穂と一度だけ顔を合わせたことがある。おーいお茶新俳句大賞の表彰式・祝賀会の席上であった。祖父の金田一京助のアカデミズムと比べると、秀穂の言説はずい分カジュアルであるが、興味深い視点を与えてくれる。
この本は、「汚い」日本語講座と題される新潮新書の一冊。発行は、2008年だ。本棚から取り出し、ページを繰ってみる。
「汚い」とは何か?を彼は研究室の学生と一緒に探求していく。
最初は「汚い」には順序があることを取り上げている。人間の体から排出されるものはだいたい汚い。しかし、目糞と鼻くそと唾と爪の垢、糞とおしっこ、ふけ、汗、どれが一番汚いかを議論している。どうでもいいことだが、何とも面白い。
排泄物でなくても汚いものはある。ばい菌とか、ゴミ、腐ったものも汚い。
では、汚い字とか、汚い言葉はどうかと議論は発展していく。さらに進むと、「汚い」と「小汚い」では、どちらの方が汚いかなどが俎上に上げられる。
「こんな風に物事を考えていくのか」
興味が湧いた。眠気がすっかり覚めて、更に読み進めた。すると本に線が引いてあることに気がついた。
ぼく自身が引いた線だ。するとぼくは、以前にこの本を読んでいたということになる。しかし、少しも覚えがない。きっと途中で読むのを止めたのだろう。そう思って、読み進める。
人類は、生き延びるために感染病を防ぐ仕組みを必要としたのではないか。それが「汚い」を忌避する習慣なのではないかと人類の進化にまで話は及ぶ。
実に壮大だと感心していたら、ここにも自分の手で線が何重にも引かれていた。
読んだことをすっかり忘れているのだ。
これは、記憶をすっかり忘れたことを嘆くべきなのか、同じ本を何度も新鮮な気持ちで読めたという幸せを喜ぶべきなのか。