俳句フォトエッセイ2025.10.01我が街に降臨したり大西日小山正見元住吉の駅を降りたら、写真のような光景だった。街が夕方の光にすっぽりと包まれている。すごい衝撃だった。慌てて、スマートフォンをお尻のポケットから出して、シャッターを切った。こんな景色はすぐに消えてなくなってしまうからだ。俳句フォトについて、よく質問を受ける。「写真と俳句では、どちらが先ですか?」というものだ。新聞小説には、必ず挿絵があるし、芭蕉の句に絵が付けられた「俳画」というものもある。この考え方だと、俳句や文章が先にあり、絵や写真は後からつけることになる。ぼくもたまには、そういう作り方をすることもある。2024年3月3日の句「春光を集めて海の観覧車」は句が先に出来、後から写真を撮りに行った。しかし、それは稀有な例である。ぼくの場合、通常は写真が先である。これには「俳句フォト」の基本的な考え方が関係している。写真を撮るのは「美しい」とか「不思議だ」とか、何か心を動かされた時である。しかし、撮った時点ではその感動が何かよくわかっていないことが多い。最初は何だかわからなかった感動を言葉にするのが俳句フォトだ。写真をきっかけに感動を定着させるのだ。いくら感動しても、見ただけの一瞬の映像はすぐ消えてしまう。ところが写真という「記録」があると、それを手掛かりにその時の感動を反芻することができる。もう少し細かく言うと、この反芻は少しずつ姿を変える。だから、その瞬間の感動と写真を見た記憶がまるっきり同じとは限らない。劣化することもある。しかし、逆に言えば他の経験とミックスされて補強されることもある。写真の良いところは何度でも見返すことができる点だ。すると撮影した時には気が付かなかったものが写っていることに気づくこともある。写真は俳句づくりの補助にもなる。写真には必ずモノが写っている。「俳句は写生」と言われる。そして気持ちを直接に言わずに「モノに託す」と言うのが俳句のやり方である。極端に言えば、写っているモノに季語を乗せればそれだけで俳句の出来上がるというわけだ。俳句の初心者でも一句を容易にものにできる。これが俳句フォトの良さだと考えている。
元住吉の駅を降りたら、写真のような光景だった。街が夕方の光にすっぽりと包まれている。
すごい衝撃だった。慌てて、スマートフォンをお尻のポケットから出して、シャッターを切った。こんな景色はすぐに消えてなくなってしまうからだ。
俳句フォトについて、よく質問を受ける。
「写真と俳句では、どちらが先ですか?」
というものだ。
新聞小説には、必ず挿絵があるし、芭蕉の句に絵が付けられた「俳画」というものもある。
この考え方だと、俳句や文章が先にあり、絵や写真は後からつけることになる。
ぼくもたまには、そういう作り方をすることもある。
2024年3月3日の句
「春光を集めて海の観覧車」
は句が先に出来、後から写真を撮りに行った。
しかし、それは稀有な例である。
ぼくの場合、通常は写真が先である。これには「俳句フォト」の基本的な考え方が関係している。
写真を撮るのは「美しい」とか「不思議だ」とか、何か心を動かされた時である。
しかし、撮った時点ではその感動が何かよくわかっていないことが多い。
最初は何だかわからなかった感動を言葉にするのが俳句フォトだ。
写真をきっかけに感動を定着させるのだ。
いくら感動しても、見ただけの一瞬の映像はすぐ消えてしまう。
ところが写真という「記録」があると、それを手掛かりにその時の感動を反芻することができる。
もう少し細かく言うと、この反芻は少しずつ姿を変える。だから、その瞬間の感動と写真を見た記憶がまるっきり同じとは限らない。劣化することもある。しかし、逆に言えば他の経験とミックスされて補強されることもある。
写真の良いところは何度でも見返すことができる点だ。すると撮影した時には気が付かなかったものが写っていることに気づくこともある。
写真は俳句づくりの補助にもなる。
写真には必ずモノが写っている。
「俳句は写生」と言われる。そして気持ちを直接に言わずに「モノに託す」と言うのが俳句のやり方である。
極端に言えば、写っているモノに季語を乗せればそれだけで俳句の出来上がるというわけだ。
俳句の初心者でも一句を容易にものにできる。
これが俳句フォトの良さだと考えている。