俳句フォトエッセイ2026.01.12歳晩や石田波郷を語り合ふ小山正見ある日、江東区の広報課から電話があった。用件は「波郷記念館で区長と対談してほしい」というものであった。区長とは大久保ともか氏である。一度日程が合わないからと断ったら、別日を指定された。波郷のことなら僕より詳しい人がたくさんいると思ったが、折角の機会なので受けることにした。石田波郷は、戦後の大俳人である。戦後江東区に住み『江東歳時記』を著した。ぼくが波郷の句に出逢ったのは、「初蝶や我が三十の袖袂」だと記憶している。「バスを待ち大路の春を疑はず」の青春性にも惹かれた。しかし、波郷の生涯の全体を見ると結核との闘いだった。七夕竹惜命の二字隠れなし今生は病む生なりき鳥兜 などの句には涙を禁じえないほどだ。「俳句は文学ではない•••なまの生活である」。虚子の「ほととぎす」派の花鳥風詠に対する「境涯俳句」の立場は明確だった。波郷はどうやって食ってきたのか、が気になっていた。息子の修大(のぶお)は、『わが父波郷』の中で「父の仕事は選句業だった」と述べてある。波郷は戦後すぐ西東三鬼らと共に現代俳句協会の設立に奔走した。俳人の生活を守るために、選句料などを取り決めたいと考えていたようだ。区長と話を進めていくうちに、自分も波郷との共通点があることに気がついた。一つは結核である。波郷は大手術を繰り返したが、ぼくは半年の療養で終えることができた。時代の違い、医療の進歩があったからだろう。波郷は清瀬で療養していた時期を含め、約12年江東区に住んだ。ぼくも同じく12年間江東区で俳句の指導に携わった。波郷は江東歳時記を著したが、ぼくは波郷を真似て「小山正見の川崎俳句フォト」に取り組んでいる。もちろん違うところも沢山ある。波郷が大酒飲みなのに、ぼくは酒は飲まない。彼が大男なのに対して小男にすぎない。いつもにも増してぼくは饒舌に語ることができた。自分の主張を滔々と語る政治家は多いが、聞き上手の政治家は稀だ。区長の語り口、柔らかい表情がぼくの語りを自然に引き出してくれた。すごい人だと思った。ますますファンになってしまいそうである。対談が掲載される区報の2月号が楽しみである。
ある日、江東区の広報課から電話があった。用件は「波郷記念館で区長と対談してほしい」というものであった。
区長とは大久保ともか氏である。
一度日程が合わないからと断ったら、別日を指定された。
波郷のことなら僕より詳しい人がたくさんいると思ったが、折角の機会なので受けることにした。
石田波郷は、戦後の大俳人である。戦後江東区に住み『江東歳時記』を著した。
ぼくが波郷の句に出逢ったのは、「初蝶や我が三十の袖袂」だと記憶している。「バスを待ち大路の春を疑はず」の青春性にも惹かれた。
しかし、波郷の生涯の全体を見ると結核との闘いだった。
七夕竹惜命の二字隠れなし
今生は病む生なりき鳥兜
などの句には涙を禁じえないほどだ。
「俳句は文学ではない•••なまの生活である」。
虚子の「ほととぎす」派の花鳥風詠に対する「境涯俳句」の立場は明確だった。
波郷はどうやって食ってきたのか、が気になっていた。
息子の修大(のぶお)は、『わが父波郷』の中で「父の仕事は選句業だった」と述べてある。
波郷は戦後すぐ西東三鬼らと共に現代俳句協会の設立に奔走した。俳人の生活を守るために、選句料などを取り決めたいと考えていたようだ。
区長と話を進めていくうちに、自分も波郷との共通点があることに気がついた。
一つは結核である。波郷は大手術を繰り返したが、ぼくは半年の療養で終えることができた。時代の違い、医療の進歩があったからだろう。
波郷は清瀬で療養していた時期を含め、約12年江東区に住んだ。ぼくも同じく12年間江東区で俳句の指導に携わった。
波郷は江東歳時記を著したが、ぼくは波郷を真似て「小山正見の川崎俳句フォト」に取り組んでいる。
もちろん違うところも沢山ある。波郷が大酒飲みなのに、ぼくは酒は飲まない。彼が大男なのに対して小男にすぎない。
いつもにも増してぼくは饒舌に語ることができた。
自分の主張を滔々と語る政治家は多いが、聞き上手の政治家は稀だ。区長の語り口、柔らかい表情がぼくの語りを自然に引き出してくれた。すごい人だと思った。
ますますファンになってしまいそうである。
対談が掲載される区報の2月号が楽しみである。