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この月をコーンムーンと学びし夜

小山正見

帰りがけ、屋根の上に見事な満月が出ていた。思わず見惚れ、
「中秋の名月の1ヶ月前の月だなぁ。この月にも名前がついているのかしら?」
と思った時、昼の「梓」(俳句結社 代表上野一孝)の句会で、Aさんが話をされていた「コーンムーン」を思い出した。この言葉はアメリカ先住民の風習に基づくものらしい。
「これが、コーンムーンっていうやつか」
Aさんというのは、一緒にこどもたちへの俳句指導をしてきた仲間だが、とんでもない能力の持ち主だ。企画力や実務能力も抜群なのだが、自然への造詣が半端でない。
Aさんに聞けば、大概の植物の名前はわかるし、鳴き声で鳥の名前も知ることができる。
感嘆すべきなのは、その知識が付け焼き刃ではないことだ。生活や人生の中から滲み出てくる知識なのだ。自然の申し子と言っても良いのではないか。
本当の意味で花鳥諷詠を詠める人とはこういう人のことを言うのではないかと思ってしまう。
最近、学校の研修会などで
「俳句指導で困っていることはありますか」
と聞くと、
「こどもたちの語彙が少ない」
という声をよく聞く。ぼくとしては何となく違和感がある。
もし、語彙だけが問題だとしたら、一年生の俳句が六年生を上回ることはあり得ない。
ただ単に言葉の数が増えれば「語彙が豊かになる」ものでもない。
大岡信の『読む書く話す聞く 日本語の豊かな使い手になるために」を読んでいたら、「言葉は知識でなく、体験である」とあった。
「これだ!」
と思った。
今日、ぼくは「コーンムーン」という言葉を知った。
Aさんの言葉と句会でのあれやこれやと屋根の上の満月の光が結びついた。
これは、一つの「体験」である。
ぼくは、死ぬまで「コーンムーン」という言葉を忘れることはないだろう。