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風死すや二階に無料喫煙所

小山正見

神保町の裏通り、お茶の水小学校の近くだ。御茶ノ水小学校の前身、錦華小学校は夏目漱石が学んだ学校だ。一画に「吾輩は猫である。名前はまだ無い。明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」と刻んだ碑がある。ふと見上げると蕎麦屋の2階にあるのは、無料喫煙所だった。
ぼくは、煙草は吸わない。誰でも同じだろうが、未成年の時には格好をつけて煙草を燻らせたことはある。しかし、煙をしっかり肺の奥まで吸い込む勇気がなかった。それが良かったのか、喫煙という習慣をぼくは持たない。その後、幸か不幸か「肺結核」と病気にかかったために今に至るまで煙草に縁がない。
就職した1970年代は喫煙社会であった。喫茶店にはテーブルごとに必ず灰皿が用意されていたし、洒落たレッテルのマッチ箱が用意されていた。ぼくは煙草を吸わないくせに、それらのマッチ箱をせっせと収集し、コレクションした。よく通った浅草国際通りの喫茶店「フラミンゴ」のマッチ箱はまだ引き出しの奥にあるはずだ。
学校の職員室もご多分に漏れず煙草社会だった。職員会議はもうもうとした煙に包まれていた。
今は、煙草はほとんど「悪」のような存在である。
いつから風向きが変わったのか。1980年代には、新幹線の喫煙車両の分離などが始まったらしい。大きく進んだのは、受動喫煙の危険が認識されてからだろう。90年代に入ると「分煙」や「禁煙エリア」が導入され始まる。

本格的に進んだのは、2000年代に入ってからだろう。
東京オリンピックの誘致活動の中で国際基準としての「煙草規制」が本格化したのだ。ぼくは、このオリンピック誘致は時代錯誤だと批判的に見ていたが、煙草規制の面では決定的な役割を果たしたと言えよう。
喫煙は完全に片隅に追いやられた。今や煙草派は肩身の狭い思いをしているだろう。
しかし、表参道にあるぼくの気に入りの珈琲屋カフェジュグルニエは喫煙可。
喫煙ができるということを看板にしている店もちらほらある。
ぼくの父の小山正孝は大の喫煙家だった。しかも両切りのピースを晩年に至るまで愛用していた。落とした煙草の火であちらこちらに焼けこげを作っていた。懐かしい。
無料喫煙室を使用しているのはどのような人たちなのか。少々興味がある。