俳句フォトエッセイ2025.09.15電線の影の溶けたる残暑かな小山正見9月に入ったのに暑い。日傘を差して出かけた。ふと振り返ったら、電線の影が見えない。一瞬ギョッとした。単に太陽光線の角度がずれて道に影が写っていないだけなのだが(笑)。影が溶けたのかと思った。自分の中の暑さの記憶を辿ってみた。子供の頃、汗をかいた記憶はあるが「暑い」という形での記憶はない。子供は暑さを感じないのだろうか。ぼくにとっての「暑さ」の記憶は、東京の気温が初めて39°Cを超えた1994年が一つ。この年、ぼくは西麻布の学校に勤務していた。冷房のない教室で毎日汗を流していた。歩道の壁の熱さに驚いた。二つ目はモンゴル旅行である。草原では馬が頭を寄せ合い、陰を作り合っていた。焼けつくような太陽に現れ、雲がたちまち姿を消した。反対に「涼しい」記憶というのもある。1972年である。この年の4月にぼくは、小学校の教員になり、足立区立江北小学校に赴任した。7月に入り、微熱が出て咳が止まらなくなった。「薬が効かない」と文句を言ったら「レントゲンを撮ってみましょう」となった。「ありますねえ」肺結核だった。「どのくらいで治りますか」戦前なら、結核は死ぬ病気だ。にも関わらずぼくには全く危機感がなかった。「軽いですから大丈夫ですよ。2年ぐらいでしょうか」医者が言った。青天の霹靂だった。次の日からストレプトマイシンによる治療が始まった。太い注射で、打つと半日は頭がぼおっとし、頬が痙攣した。この当時は、ストマイ、パス、ヒドラジドが対応策の三種の神器とされていた。パスは、それ自体の効果はあまりないが、ヒドラジドの抗体ができるのを防ぐためと説明を受けた。1ヶ月の治療で肺の影はだいぶ消えた。しかし、結核患者が教壇に立つわけにはいかない。9月から野火止にあった三楽病院(教職員互助会の運営する病院)の分院(結核療養病棟)に入院することになった。9月3日だったと記憶している。消灯は夜9時だ。病室の窓は網戸になっていて、そこから冷気が入り込んできた。「寒くないだろうか」と思いながら布団を被った。半年後、ぼくはここを退院し職場に戻った。「涼しかった」記憶である。
9月に入ったのに暑い。日傘を差して出かけた。ふと振り返ったら、電線の影が見えない。一瞬ギョッとした。単に太陽光線の角度がずれて道に影が写っていないだけなのだが(笑)。影が溶けたのかと思った。
自分の中の暑さの記憶を辿ってみた。
子供の頃、汗をかいた記憶はあるが「暑い」という形での記憶はない。子供は暑さを感じないのだろうか。
ぼくにとっての「暑さ」の記憶は、東京の気温が初めて39°Cを超えた1994年が一つ。この年、ぼくは西麻布の学校に勤務していた。冷房のない教室で毎日汗を流していた。歩道の壁の熱さに驚いた。
二つ目はモンゴル旅行である。
草原では馬が頭を寄せ合い、陰を作り合っていた。焼けつくような太陽に現れ、雲がたちまち姿を消した。
反対に「涼しい」記憶というのもある。
1972年である。この年の4月にぼくは、小学校の教員になり、足立区立江北小学校に赴任した。
7月に入り、微熱が出て咳が止まらなくなった。
「薬が効かない」
と文句を言ったら
「レントゲンを撮ってみましょう」
となった。
「ありますねえ」
肺結核だった。
「どのくらいで治りますか」
戦前なら、結核は死ぬ病気だ。にも関わらずぼくには全く危機感がなかった。
「軽いですから大丈夫ですよ。2年ぐらいでしょうか」
医者が言った。
青天の霹靂だった。次の日からストレプトマイシンによる治療が始まった。
太い注射で、打つと半日は頭がぼおっとし、頬が痙攣した。この当時は、ストマイ、パス、ヒドラジドが対応策の三種の神器とされていた。パスは、それ自体の効果はあまりないが、ヒドラジドの抗体ができるのを防ぐためと説明を受けた。
1ヶ月の治療で肺の影はだいぶ消えた。しかし、結核患者が教壇に立つわけにはいかない。
9月から野火止にあった三楽病院(教職員互助会の運営する病院)の分院(結核療養病棟)に入院することになった。
9月3日だったと記憶している。
消灯は夜9時だ。病室の窓は網戸になっていて、そこから冷気が入り込んできた。「寒くないだろうか」と思いながら布団を被った。
半年後、ぼくはここを退院し職場に戻った。
「涼しかった」記憶である。