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一本の電話線より夏つばめ

小山正見

妻とグループホームで面会している最中に電話があった。Mからだ。
Mとの付き合いは30年を越す。
ぼくが港区の麻布小学校の教頭になった時に、Mは隣の学校の教頭だった。
歳はぼくより1歳若いが、教頭としては先輩だった。どういうわけか気が合った。それに彼の奥さんとぼくは江東時代に一緒の学校に居て、同じ学年を組んでいたという縁もあった。
地区の教頭会の仲間で、京都に旅行に行ったこともある。ザラメを敷いた関西風のすき焼きを一緒に食べた。金沢に行った時は、生の蟹にかじりついた。
彼は、早く昇任し学校も移ったので10年以上疎遠だった。その彼と江東区でまた一緒になった。
退職してからも、付き合いは続いた。
彼の自宅がぼくの勤めていた教育センターから近かったので、昼食をご馳走になったこともある。
ぼくが俳句を始めたように彼は短歌を始めた。NHKの短歌の雑誌にも何度も取り上げられた。
その彼は足が悪い。校長時代に交通事故に遭ったのだ。一時は自転車で区内を移動していたが、最近はそれもなかなか難しくなったようだ。週に2回ジムに通ってリハビリをしていると言う。
ぼくが江東区を退職して縁が遠くなったが、時々電話をもらう。
この前は4月だった。
「沢木耕太郎のエッセイがめっちゃ面白い」
と言う。『命の記録』というエッセイだった。早速買って読んだ。沢木耕太郎は若い時に『深夜特急』をワクワクしながら読んだ記憶がある。講演会を聞きに行ったこともあった。
グループホームの妻の症状ははかばかしくない。声を出すことも最近はほとんどなくなっている。
気分が重い。
ホームを出てから彼に電話をかけ直した。
特別な話があるわけではない。
「どうしてる?」
「変わんないよ。そう言えば、お前の学校に行ったよ」
「まだ頑張っているじゃないか」
「でも最近はひどく疲れる」
「仕方ないよ歳なんだから」
「(笑)」
たわいのない話が続く。
「話を聞いていると元気そうじゃないか」
「そんなことないよ」
「でも、声に張りがある」
「声だけだ」
「声が元気だって言うのは元気だってことだ」
「カラ元気だよ」
「カラ元気も元気のうちさ」
電話は切れた。
別に理由はないのだが、少し心が晴れやかになった。
つばめが空を横切って飛んで行った。