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我が家

俳句フォトエッセイ

なしぶどう感謝を込めてカレー食ぶ

お世話になったワーカーズコレクティブパンジー(以下、パンジー)から写真のような案内が届いた。「みんなでごはん」という催しだ。今、全国に広がっているこども食堂と同系列の試みといって良いと思う。これらの試みは、貧困対策という側面もあるかもしれないが、それ以上に「地域で共に子どもを育てる」とか「地域で共に暮らす」象徴的な取組ではないかとぼくは捉えている。カレーライスだけでなく、梨や葡萄のデザートも添えられ、コーヒーや紅茶も供された豪華な夕食だった。妻がグループホームに入居するまでの数年間、ぼくたちはパンジーに毎日のようにお世話になった。実は、ぼくは認知症が介護保険の対象になることを長く知らなかった。

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秋の雨炭酸泉の湯の加減

【銭湯紀行】20元住吉今井湯今井湯は我が家から一番近い銭湯である。取り上げるのは2回目である。歩いて15分だ。しかし、なかなか家から出かける気にならない。この日は、武蔵小杉で行われている椿句会の帰りに寄った。椿句会は、今回で648回目。月に一回として、54年の歴史を持つ。数年前Nさんに頼まれ、指導を引き受けることになった。会の伝統で6句出し、8句選が続いている。ぼくが始めたのは、毎回の句会報を書くことぐらいだ。久しぶりの今井湯に入って驚いたのは、券売機が新たに設置されていたことである。今はこの方式が銭湯の主流になっている。番台で金銭を取り扱わない方が安全で、管理も楽だからだろう。

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ごちやごちやのペッパーライス秋暑し

またまた昼食の話だ。この日は両国に出かけ、面白いものを発見した。我が家・感泣亭は元住吉にあるが、その一角が戦前にできた分譲住宅であることは昔から何となく知っていた。しかし、それが同潤会の事業の一環であったことを知ったのはつい最近のことだ。その証拠を横網公園の復興記念館で見つけたのだ。パネルの一枚に「年表で見る同潤会の事業展開」があった。パネルによれば、震災後の住宅復興事業の中心を担ったのが同潤会だったらしい。最初は賃貸住宅の建設が中心だったが、そのうち分譲住宅を手がけるようになる。年表の最後、1941年の項に「元住吉166戸」とあった。その発見に気をよくして外に出ると、日差しが強い。

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梅雨明けて我が家に残る七不思議

土曜日に我が家「感泣亭」で「言葉の部屋」が行われていた。「言葉の部屋」は詩人の服部剛さんの主宰する詩の教室である。いつもは僕も仲間入りするのだが、この日は外せない用事があり、欠席した。始まる時刻に服部さんから連絡があった。「電灯が点かない。冷房もダメ」というのだ。「どうしてだろう」前日の大雨が原因かもしれない。漏電したのかと心配になった。慌ててお世話になっている近所の電気屋さんに連絡した。すぐ飛んできて調べてくれた。漏電ブレーカーが落ちただけのことで、すぐに復旧できた。ぼくは、漏電ブレーカーのあることも、その位置もすっかり忘れていた。我が家にはぼくの知らないことがあると思い知らされた。

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人がみな我よりはやく歩く春

石川啄木の歌集『一握の砂』に《友がみな我より偉く見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ》の一首がある。句はこのパロディでもあるが、実感でもある。朝、我が家から東急の元住吉駅まで、歩く。行き慣れた道だ。しかし、最近気づいたことがある。人が皆ぼくを抜いていくのだ。ぼくとしては、一生懸命に歩いているつもりなのに、平気で追い抜かす。足が短いのか、回転が遅いのかどんなに頑張っても追いつかない。病院の栄養相談に行くと、筋肉量の測定器に乗せられる。結果、足の筋肉量が標準以下だと言われた。駅では、エスカレーターに乗らず歩いて上がるように努めてきた。歩く量は以前より減ったとはいえ、平均9千歩は歩いている。

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花冷の我を迎ふる我が家かな

夜になるとまだ寒い。その上、冷たい雨だ。駅から家までの距離が遠く感じる。ようやく我が家だ。鍵を開けて中に入ると暖かい。寒さからやっと解放された気分だ。母が亡くなってから、ぼくはこの家に住んでいる。丸12年ということになる。表には、小山正孝の表札がまだある。今の家が建ったのは、今から60年前だ。我が家があるこの場所は、同潤会の分譲住宅だった。6畳、4畳半、3畳に狭い台所が付いていた。老朽化が進み、引越しも検討したようだが、結局家を建て直すことを選んだ。設計を依頼したのは、建築家の生田勉氏。

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花の雨母の遺影と向かひ合ふ

母・常子は2014年3月23日に亡くなった。今年で13回忌のはずである。本来なら、お坊さんを呼び一族が集まって偲ぶところだろうが、我が家では何もしない。だいたい、戒名も位牌もないのだ。父からしてそうだった。その代わり、忌み日に「感泣亭例会」を開き、「感泣亭秋報」を発行してきた。それも18冊で終刊とした。母の遺影は卒寿のお祝いに自由が丘のレストランで家族で撮った写真からとった。穏やかな顔をしている。母は、父が亡くなってから、思い出を圓子哲雄さんが主宰していた『朔』に寄稿し続けた。この文章を妻の邦子がまとめ『主人は留守、しかし・・・』という本にまとめた。